どこの家庭でもおそらく皆同じだと思いますが、夫婦共働きや母子家庭での、働くママはうざいと感じられる瞬間がきっとあると思います。でも本音で言えばその言葉の裏には、働くママはうざいけど感謝していることが多すぎて、それをうまく伝えられない事で時には悲しくなることがあるのも本音だと思います。
働くママはうざいけど好き。感謝の気持ちを伝えることはどれほど親密な関係であろうと、勿論親子の間でも必要なことだと思います。
「いつもありがとう」
この言葉は仲が良すぎても照れて言えない言葉ですが、自分でその一言がどれ程嬉しいかが分かるのはきっと自身がその立場になるまで気づけない事だと感じます。
働くママはうざい!けれどその言葉の裏にある意味は
働くママ はうざい、そう言う事を世間ではよく言われることは実際問題としてあることです。
ワーキングママとも呼ばれるこの働くママの実態は、過酷という言葉がそのまま当てはまる事実を知れば、うざいという言葉が消えることを切に願いつつ話を進めてまいりましょう。
多くを語るには、少し重い話になると思いますので、先に結論を述べさせて頂けるなら、「働くママはうざい」と言われるとしても、それは大きな視点で見るとき、そこには「愛」と呼ぶ以外に例えようがない、ママと呼ばれる存在が無くしては語れない言葉が根底にある事だけは結論として記しておきます。
一昔前までは、男性は外で働き女性は家事と育児に専念するという、家族の形が当たり前であった時は、もはや古き良き時代と呼べばよいか難しい事ではあります。
しかし、この形は今では見ることが少なくなってきました。
女性の地位向上が以前から望まれてきたのは事実です。女性の管理職の割合が年々増える傾向は、もう後戻りできる時代ではないのが現状です。
女性の社会活動への躍進はごく当たり前の出来事です。
働くママはうざい? 女性が働くことは当たり前になりつつある時代
女性の労働力が今では無くてはならない程、重要度が増しているのは、女性の労働に対する意識の変化と、現状の日本の人口分布も重ねてみていくことが重要です。
昭和の時代では女性は就職しても結婚とともに家庭に入ると言う事が、極自然な流れと言ってもよい時代でした。
寿退社などという言葉も、当たり前に世間に受け入れられる言葉として存在していた時代の話です。
しかし働くママが昨今増加してきた理由には、女性の労働というものに対する関わり方も、時代の流れとともに大きく変化してきたことの証と言えるものでは無いでしょうか。
物価は下がることを知らず、しかし今の我が国の賃金は物価に追いつくほどの増加が見えない事が、働くママの増加に拍車をかけていることは否めません。
ワーキングプアという言葉が生まれるほど、日本の労働条件は他の先進国に比べると寂しいと言わざるを得ません。
「働くママはうざい」と世間では言われることもあるけれど、どうなの?
付け加える事実として、世論としては「働くママはうざい」と言うご意見があることは承知しております。これらのご意見を拝読いたしましても、必ずしも全てが否定的であるとは感じません。
「働くママはうざい」との世論は等分されている様に感じます。そこには何故そう呼ばれなければならないのかが悲しい、と思われる意見もあり。
働くママがその職場において、陰でうざいと言われることもよく聞く話です。それは例えるなら余り残業をしないとか、休みがちであるなどそれなりの理由があるものです。
確かにこれは事実です。急な子供の発熱や学校行事などへの出席を理由に欠勤したり、早退などはある意味仕方のない事です。しかしこういったことはあくまで個人的な理由であり、職場には関係ない話です。
勤務している以上、会社や同僚に迷惑をかける行為が目立てば同僚などから、だから「働くママはうざい」と言われても致し方の無い事かも知れません。
それらの事は勤務している以上、本人も自覚していることではあるのですが、家庭も職場も双方ともに完璧を期することは生半端なことではありません。
「働くママ」にとってはこれらは避けては通れない現実ですが、大きな視点から見れば戦力として「働くママ」が必要であることをご理解の上、本人も責任ある対応が必要なのは当然です。
私も働くママの家庭で育った経験上、「働くママはうざい」と思っていた時期があることは経験上ございました。
しかしそれは裏返せば、もっと私の話や関わりを求めていたことが大きかった事と、子供特有の反抗期が重なっていたことが理由であったように振り返ってみればそう思います。
けっしてママが嫌いとかと言う事ではなかったと思い返しております。
いや実際、「うざい」のは事実であると言うご意見もあることも理解の範囲です、仕事や日々の暮らしの煩雑さを、つい子供に向けがちであるケースもあると思います。
こういったことが、「働くママはうざい」のは実際あるというご意見も踏まえたうえで、私なりの私見を記してまいります。
なぜ働くママは、「うざい」と言われなければならないのか?けど言葉の裏には!
働くママは、なぜ「うざい」などと言われなければならないのか。この言葉やその言葉の裏にある本音は、他の国から見れば、非常に奇異なこととして写っているようです。
働くママが増えてきたことは、わが日本がやっと先進国と呼ばれる所以の一つと思われないのが、残念な事であるとしか言えない事ではないのかと感じます。
これにはある意味で、一つの昔ながらの偏見というものが介在しているように思います。
家庭を持ち子供がいる家庭のママは、昔ながらの役割分担として、第一に家事と育児が最も重要な使命と思われている事は、まぎれもない事実としてまだ存在しています。
夫は生活するために必要な金銭を稼ぎ、妻は家庭を守るという考え方です。この構図が一般論としてまだ日本人の思考回路に根強く潜在意識としてあるからではないでしょうか?
したがって、稼ぎの少ない夫は駄目な夫として、また育児は妻の役割である以上教育から、果ては子供の人格形成までその責を追うはめに陥ってしまう傾向がママに無いとは言えません。
昔からママは「うざい」ものだった
子供たちにとり、何よりも思春期を迎えるまで、またはその思春期のまっただ中で、何が一番うざいかと考える時。
口うるさい大人たちの小言や説教なのは、今も昔も変わる事のない普遍的な、いわば成長の証なのだと考えます。昔からママは「うざい」ものだったのです。
勿論、子供とは何歳までを指すかは横に置いても、親から見れば幾つになろうが子供は子供であり続ける事に何ら変わりはありません。
したがって子供が幾つになろうとも、ある意味で、子供にとって、親は、特に口うるさいママは「うざい」ものと思われてしまう存在なのではないかと寂しくもあります。
働くママと専業主婦としてのママ
特に働くママと専業主婦としてのママは、子供と常に接してきたママとしては、少し立場が違うのは事実です。
経済状況だけでこの差があるとは決して言えないことは、どなたもご理解いただけると思いますが、また経済的な問題で専業主婦をしたくとも出来ないというママは、働くママは「うざい」と言われやすい状況にあるのは紛れもない現実です。
専業主婦が良いとか、働くママが悪いとかではなく、その両者には歴然とした差と言うか壁のような目に見える違いが随所にあることも、どこか遠いところの話ではなく日常なのです。その日常は、
これまた好きか嫌いではなく、人は皆平等に訪れるものなのではないのです。
その日常の積み重ねを、人は暮らしと呼ぶのでは無いかと思います。その日常のあり方について考える時に、今の日本はまだ途上国と言える段階では無いかと思います。
望んで働くママを選べた方はまだ幸いかも知れませんが、選択の余地なく働くママになるしか無かった方は、少なくとも他人より多くのものを得る為には、不平等ではありますが手放さなければならない物も多く存在するのが問題点です。
考えずとも理解できることは、働き、なおかつママと呼ばれ続けるためには専業主婦と比較するなら比べようもないほど、途方に暮れるほどの意識と献身が求められます。そしてそれが「働くママ」なのです。
しかしその答えが「うざい」のたった三言葉で片付けられては、立つ瀬がありません。しかし、多くの働くママは、その「うざい」の言葉すら我が子の為なら受け入れられるのです。
勿論腹が立たない訳がある筈も無いのですが、「母」という存在はそれほどまでに大きな存在なのです。
働くママに「うざい」と言った後の後味悪さ
ママとしては、我が子に「うざい」と言われて嬉しいなどと感じる方などいるはずはありません。
しかし「うざい」と言う言葉を放った子供にも、その言葉は時としてもろ刃の剣の様にわが胸にも傷を追う事は、これまた珍しい事ではありません。
「うざい」と言った後の後味悪さ、これも誰しもが経験してきた事です。
そこにはきっと寂しさや悲しみも含まれることが多いものです。どこの世界にママを心底憎む子がいるでしょうか?
万が一いたとしたら、悲劇ではありますが、それは双方に足りない何かが存在すると言う事を知らしめてくれた言葉と受け止めるべきです。
まだ、「うざい」と言う言葉すら知らない幼子には、この感情は無いかも知れませんが、「うざい」の意味を自覚できる年代の我が子から言われたのなら、薄々ママは気づいている筈です。
「うざい」と言わせた自分の未熟さや、まだママとしては足りない何かを、そして、その感情をそれでも持ち、生き続ければならないママと言う言葉の大きな意味と責任を。
まとめ
働くママは「うざい」、決してママとして聞きたくない言葉だと思います。しかしよく考えれば、働くママはうざいけどその言葉の裏には、もう少し深い意味も隠されているのかも知れません。
出来れば、朝のおはようからおやすみの言葉まで、笑顔で一日を始め、締めくくる暮らしを誰しもが望んではいるのですが、「天気晴朗なれども波高し」と過去の偉人が残したように、平穏無事な毎日など望むべくもないのが、これまた古い言葉で恐縮ですが人生ってものです。
今日涙しても、明日笑顔が訪れれば、人はそれを糧に毎日を頑張れるのではないでしょうか。切ろうと思っても切ることの出来ない、それが親子の強い絆と呼ぶべきものです。言葉は発しなければ意味を持ちませんが、発した言葉には重く深い、見えない何かが含まれていることもお忘れなきよう頑張りましょう。
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